私がまだ駆け出しの映画記者だったころからお話をうかがっているベテランプロデューサーに、先日久しぶりに話を聞くことが出来ました。ベテランと書きましたが、日本映画界においてはもはや生きる伝説のプロデューサーと言っても過言ではないでしょう。
70歳を超えられてからは若い才能の発掘と育成に注力されたり、自身の制作会社の社長業をされてきたのですが、80歳を前にして映画プロデューサーの現役復帰を宣言されました。何かあったのですかと聞いたところ、プロデューサーとしての勉強が疎かになってしまっているので改めて専念したいと言うのです。歳は関係ないのかもしれませんが、ここにきてのこのバイタリティには頭が下がります。
あまり具体的に書けないのでわかりにくいところはご容赦いただきたいのですが、その方は30代で自身の最初の制作会社を立ち上げて、約7年後に初の長編映画の製作に乗り出しました。大手映画会社ではなく、独立プロダクションですのでいったい製作費はいくらだったのか聞いてみると、なんと4000万円くらいはかけたというのです。70年代当時の4000万円を今に換算すると…7000万円くらいにはなるのでしょうか。
もちろん当時は35㎜フィルム撮影の時代ですから、今のインディ映画よりも制作費がかかるわけですが、それにしても公開劇場や配給会社も決めずにそれだけの制作費をかけて映画を作ってしまう腹の括り方にも頭が下がります。
約40年にわたってその方がプロデュースしてきた映画は、日本映画の歴史の中でも非常に重要な価値を持っています。映画産業が斜陽になっていた時代に若く新しい才能とともに、それまでの日本映画の概念を覆すような意欲的なテーマや作風の作品を数多く手掛け、今のメジャーの日本映画を支える監督や俳優たちを世に送り出してきました。
「プロデューサー主導の作家主義」を貫き通してきたそのプロデュース姿勢には、とても刺激を受けます。映画プロデュースに専念しようか、そのために環境を変えようか、次回作の制作費はいくらか、と思い悩んでいた自分が馬鹿らしくなりました。
人々を感動させる映画を作るには、まず自分の凝り固まった考えや姿勢を変えなければならないのだと痛感した次第です。ただし、映画記者である自分の強みは生かしながら、片手間ではなく、映画作りに命を賭けること、それが出来ないのであれば作るべきではないのだと思います。