北野武さんがオフィス北野を3月末で退社のニュース! 北野監督の新作映画への影響はいかに!?

北野武さんが3月いっぱいで事務所を退社し、独立するというニュースが3月14日のホワイトデーに飛び込んできた。オフィス北野を退社し独立? ちょっと紛らわしいが、1988年に現社長の森昌行さんと立ち上げた自分の事務所を離れるというのだ。森社長の話では、「(たけし)軍団を含め、これまで背負ってきたものをいったん下ろしたい。自分の時間を増やしたい」という申し出があったというのだ。71歳の武さん、いったいどんな心境の変化があったのだろうか。

 

一部報道では、2年前に(愛人と)別の会社を設立し、退社、独立に向けて準備を進めていたという。第三者の我々からみれば、お笑い芸人・タレントとしてテレビのバラエティー、監督として映画、文化人として執筆業と自分のやりたいことをやってきたように見えるのだが、内情は違ったのだろうか。今のところ疑問符しか浮かばない。

 

確かにオフィス北野の屋台骨、大黒柱として、軍団も所属する会社を支えてきた苦労は本人にしかわからない。古稀を迎え、背負ってきたもの、責任を下ろしたいという気持ちは理解できなくはない。しかしなぜこのタイミングなのか? 森社長とケンカしたのか? いや、もうそんな関係でもないだろうと思いたい。

 

この独立によって、現在レギュラー番組の出演契約にどのような影響があるのだろうか。他のタレントのように飛び出したからといって契約を解除されたり、芸能界から干されるということは考えられない。私が心配なのは、テレビでその顔が見られなくなったとしても、映画が監督できなくなってしまうことだ。北野監督作品がもう観れないのか?

 

お笑い界最大の実力者であり、世界的な映画監督でもあるので独立しようが何しようがオファーは来ると思うのだが、映画に関しては、オフィス北野が拠点となって撮り続けてきたことは大きな意味を持つと思う。芸人ビートたけしと監督北野武をバランス良くプロデュースしてきた森社長の手腕はあまりにも大きい。「座頭市」(03年)まで興行的に厳しい状況が続き、映画を監督できなくなる可能性もあったという。ちょうど昨夜購入した書籍「映画監督、北野武」の中の森社長のインタビューを読んでいたので、改めて森プロデューサーの偉大さを痛感していたところだった。その言葉からお互いへのリスペクトと阿吽の呼吸が感じられていたのに。

 

北野武監督ファンとして思い込みたい理由の一つのが、大杉漣さんの死である。北野作品の顔とも言える俳優、大杉さんは2月21日に心不全のため急逝した。66歳だった。その時武さんは自分の番組内で涙ながらに大杉さんへの思い出を語り、「変な言い方だけど、自分が生かして、最後に自分が殺した」ような気持ちというような言葉を述べたのが印象的だった。当時まだ無名の大杉さんを「ソナチネ」(93年)で抜擢し、その後大杉さんは役者としてブレイク。昨年公開の「アウトレイジ 最終章」で久しぶりに北野作品に出演し、最後は車にひき殺されるというヤクザの親分の役だった・・・。

 

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自分の映画を支えてきた盟友を失い、思うところがあり、ここで一つの区切りをつけたくなったのではないか。そんな風に勘ぐりたくなってしまう。

 

第90回アカデミー賞受賞作品「シェイプ・オブ・ウォーター」に心酔、ギレルモ・デル・トロ監督のイマジネーションを堪能せよ!

第90回アカデミー賞で全13部門にノミネートされ、作品、監督、美術、音楽の4部門を受賞した、ギギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た。とても映画愛に満ちた、映画だからこその表現を駆使したピュアな作品だったと思う。製作・原案・脚本も務めたギレルモ監督ワールド全開のファンタジーラブストーリーとなっている。

 

幼少期のトラウマで声が出せないヒロイン、イライザと、アマゾンで捕獲されたという不思議な生き物のラブストーリーがファンタジーとして成立してしまうのは、いくつか理由があると思う。まず視覚的に美術が優れていること。政府の極秘研究所という作り込まれたダークな世界観の中に姿を現す半魚人のようなグロテスクな生き物は、リアルであり、違和感がなく、もしかしたら存在するかもしれないと思わせる造形だ。

 

男でも恐れるような容姿に、噛み付いてくるかもしれないという未知なるものへの恐怖がわき起こり、女性ならなおさら恐がって、近寄りたくないと思うのが普通であるが、イライザとこの不思議な生き物は、目と目を合わせた瞬間からお互いの本質を見抜いたかのようにすぐに惹かれ合う。言葉は必要ないのだ。目と目、手話、ボディランゲージで意志を疎通させていく。そして、次第にこの生き物が愛らしく、魅力的に見えてくるではないか。人間にとっての恐怖とは愛とは何なのか、突きつけられたように感じる。

 

2つ目の理由は、1962年、冷戦下のアメリカという時代設定だろう。アメリカと旧ソ連が互いを出し抜いて世界の覇権を握ろうと水面下で躍起になっている、ある意味戦時下よりも異様な時代と世界。軍事力や科学技術を磨き、あらゆる面で世界一になろうとする中で、宇宙船や宇宙人のように、未知なる生き物を研究しようという設定は映画的な説得力を持つ。ギレルモ監督の「パンズ・ラビリンス」(06年)を観れば、この監督が戦争に対して、戦時下の人間の精神の狂気について、死について、何を考えているのかがより深く理解できるだろう。

 

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そしてもう一つは、様々な場面に散りばめられた映画へのオマージュであろう。古き良き時代、物質的には満たされていなかったかもしれないが、ギレルモ監督の懐かしき記憶、思い出がこの物語を包み込んでいる点が、観ている我々を幸福にするのであろう。グロテスクなもの、フリークス、未知なるものとの接触を扱った映画は過去に何本もある。一部でパクリ疑惑が出ているようだが、それをどう捉えるかだと思う。

 

孤独な人間にとって人生は時に残酷である。しかし、ギレルモ監督はファンタジーというカテゴリーの中で、ユーモアやイマジネーションがそんな人生を豊かにすることを描こうとしているように思う。映画のラスト、イライザはどうなったのか。あなたのイマジネーション次第でこの映画の味わい方が変わる。

第90回アカデミー賞2冠の「スリー・ビルボード」が問いかけるテーマにどう答える? 製作者たちの信念が深い感動を与える傑作ドラマ

第90回アカデミー賞でフランシス・マクドーマンドが主演女優賞を受賞した「スリー・ビルボード」を授賞式(日本時間3月5日)前に観た。純粋に素晴らしい作品だった。揺るぎない、語るべきテーマが核としてあり、マーティン・マクドナー監督を中心に、キャスト、スタッフがこの作品を信じて制作したことがスクリーンから伝わってきた。

何者かに娘を殺された母親が、7カ月経っても犯人の捕まらない状況に業を煮やしある行動をとる。頼りにならない警察への母親の怒りが、アメリカ・ミズーリ州の片田舎の社会や人間関係を揺り動かし、波紋を広げ、様々な事件を引き起こしていく。

この作品はイギリス映画で、ハリウッド作品に比べれば低予算で制作されたと思われる。だが、ウディ・ハレルソンや、同じくアカデミー賞で助演男優賞を受賞したサム・ロックウェルらが共演しており、いわゆる日本の低予算映画よりもゼロが2つほど多いだろう。

大金をかけなくてもこんなにも志の高い、信念のある作品が作れることに敬意を表したい。日本のインディ映画の企画に制作資金がなかなか集まらないことを嘆いていることが恥ずかしくなった。本当にその企画を信じて取り組めば、同じ思いを持った仲間は集まるに違いない。

この作品からは様々なことを考えさせられたが、一番印象的だったのは「怒りは怒りを来す」という台詞、言葉だ。フランシス演じる母親の行動はエスカレートし、許されないものもある。けれど、演じるフランシスの信念の宿った眼(表情)を観ただけで泣けてきてしまう。自分とは異なる他人に寛容になることは容易ではない。他人を許し、自分の過ちを認めることは勇気がいる。

この映画は、人間社会が抱える様々な問題に対する答えを描いてはいない。この映画を観た観客自身それぞれが、観終わった後に自分に問いかけるようなラストになっている。